友枝觀水から見た芦屋釜   
高取焼 内ケ磯窯の陶房を開いている直方市を遠賀川が流れているが、20キロ程川を下ると河口に芦屋町がある。

この芦屋町がかの有名な芦屋釜の生産された所で、こんな田舎の海辺の町と不思議に思われるのは充分に推測される。


今でこそ寂れた田舎の町だが、かつては、そう弥生時代後期には日本三大軍港の一つで「岡の津」として有名だった。

かつての良港は長年の土砂の流入と干拓でその面影は無いが広大な湾を形成していた。

それでも江戸時代は北前船なども寄港する良港で、中国の明などとの海外貿易の主要な大きな商業港として栄えたが、明治になって鉄道の普及と共に寂れていった。。



ところで、数年前までは芦屋の海岸には砂鉄があって、釉薬に使うので磁石があれば簡単に採れていたのだが今年(平成20年)になって出かけてみたら砂鉄がいつもの所に無いのに驚いた。

地球自身の地勢の変化なのか、芦屋から少し西の岡垣の浜には沢山採れる所があったので行って見たがやはりそこも全く採ることが出来なかった。

又、20年程前だと浜に接する丘の地層には砂鉄の塊さえ在ったのに、もう何処にも無くなってしまっている。

周りの地形にはなんら変化や異常は見られないのに、生物の絶滅のように消滅してしまっている。

まるで、次元移動して行ったかのよう。

という事は、もう芦屋釜を復元するのは無理という事になる。


何故なら、砂鉄なら何処のでも同じと思われるかもしれないが、芦屋が芦屋釜たるのは砂鉄に含まれる異種金属の含有量に他の産地の砂鉄とは極端な差があったのである。

今から10年程前、図書館でたまたま見ていた金属材料の本に、日本全国の砂鉄の産地毎の金属分析表があったので表の中の数字を追っていたら、芦屋と他との明確な違いを見つけた。

それは、チタン の含有量。

通常は2・3パーセント前後で多くても約4パーセントで、ひとつだけ7パーセントがあったがなんと芦屋は 17パーセント で驚異的な量が入っていた。

チタンは今日とても持て囃されている稀有金属の一つで、極めて高価なもので性質も特異的なものとして知られている。

尚、 砂鉄は地下のマグマが冷却して形成した火成岩中に含まれるチタン磁鉄鉱やフェロチタン鉄鉱が風化作用により母岩から分離したものです。

一般的には、軽量・錆びない・硬いで知られているが、釜の素材として観ると確かに理想的であるのが分る。



なにせ鉄の釜、少しでも軽いにこした事は無い。

鉄の比重7,8に対してチタンは4,7。

約6割の重さ。

チタン製のバイクのパーツなど手に持ってみるとその違いにびっくりする。

鉄のボルトを持った後に持つと、まるで、重量が無くなったかのようにさえ感じる。


ただし、チタンの含有量が多いからといっても、所詮は鉄が主成分なので200年以上も使い続ければさすがの芦屋砂鉄を使ってたものでも錆により穴が開き使用不能となる。



その上、室町後期になると侘茶の流行で釜の重量そのものの軽量化が要求され、より軽く、より薄肉化が追求された結果、初期に比べて耐久性に劣る事となった。


この軽量化という点では外観では「環付き」に大きな違いが見られ時代の特徴がよく表れている。

芦屋釜初期の鎌倉時代のには、実に堂々とした大きくて立派なのが付いているが、これに見慣れると室町時代後期の小さな環付きの付いた芦屋釜は繊細というか華奢な感じがして物足りない感が否めない。

室町後期では環付きを強度的に許容範囲ぎりぎりまで小さくし、軽量化を計ったと思われる。

なぜ、そこまでの軽量化をしたのかは後述するが、鎌倉時代のような力強さや鬼面の表情の面白さは見られなくなっている。

確かに現存する芦屋釜は極めて薄い厚さで有名だが、皆さん勘違いされてるようです。

初めから薄かったと思っているようですが、そうでは無くて、初めはもっと厚みがあったのが、使用を重ねる長い時間と共に錆びによる腐食で薄くなっていったのを最初から薄かったと勘違いしているようです。

錆がもっと進行すると、薄いのを通り越して穴が開いてしまう事になります。

特に底の部分に穴が開くと当時では修理不能のため、底の部分を削除して底全体を新しく作ったのに取り替えてきたのです。

この時間と共に厚みが薄くなってきた事を釜作りの本職さえ気づいていないようです。



このように、伝世される多くの国宝を含む芦屋釜は釜底を後世になって取り替え修理してあるが、もちろん本来の芦屋砂鉄で作られた釜底のものでは無い。

手元に在ったの初期の芦屋釜は実用性を重視された作りのためと、超良質の砂鉄を使用したためか、底の部分の肉厚は、まだたっぷりと有り、約800年も経つのに 「うぶ底」 のままなのに現代でも普通に使用出来た。

これは、チタンを多量に含む芦屋釜特有の錆びない性質があるから800年前のでも使用に耐えるのであって、他の産地の砂鉄を使えばとっくに使用不能というか、形すら残っていないだろう。



又、チタンは硬く強靭な性質を持つので、指で釜の縁を弾くと実に澄んだいい音がする。

古い程、いい音がするとされる。

これは、日本刀と同じ現象で、古い程、金属の精錬技術が高いからだとされている。



つまり、時代と共に技術が下がっていったとの定説があるが、芦屋釜に関しては砂鉄の素材その物の材質の低下によるのが最大の原因と考えられる。

金属分析表による17パーセントのチタン含有量はあくまでも現代に於いて入手した砂鉄によるものであって、昔の釜に使われたのがどうなのかは知らない。

推測だが、鎌倉時代のはもしかしたらもっと高い数値が出たかもしれない。

そして、室町後期のは17パーセントに近い数値の可能性が考えられる。




又、この硬い性質が釜を火にかけて湯を沸かした時に聞こえてくる鈴が鳴るような音 「松籟」 に違いが出る事になる。


この点にこだわれば、後世になって芦屋釜の底を貼り変えたほとんどの芦屋釜は素材の違いによって本来の音「松籟」を聞く事は出来なくなっている事になる。

又、貼り変えるには釜底と胴体を漆で接いだとされているが、それだと、釜底の湯の微妙な振動が漆で吸収遮断されるので釜の上部に伝わらず、この点からも修理した芦屋釜は本来の美しい音色はなくなっていると言える。

よって、芦屋釜廃絶以後の後世では、素材そのものの質の低下により、「鳴り金」 などを釜の底に付けて故意に音を出さねばならなくなってしまったのであろう。

又、釜の表面及び内部全体を漆で表面を仕上げるようになるが、漆を塗らなければチタン含有量が少ないため錆がひど過ぎて汚すぎるのが原因であろう。

要約すると、軽い事、錆びない事、音色が綺麗な事 に芦屋砂鉄を使った芦屋釜の素材による特色が集約される。


ところが、チタンは溶かす時の融点が鉄の1300度よりも遥かに高い1600度なので、極めて高度な技術が必要となるのは今日でも変わらない。

よって、今日に於いて、芦屋の砂鉄以外のを使って、いかに100パーセントの砂鉄だけでで作ったとされても、
「古芦屋」 には遠く及ばないことになる。




尚、芦屋以外の土地ではチタンを17パーセントも含む芦屋砂鉄を熔かすのは当時では物理的に無理がある事にに気付いたが追って後述する。


友枝觀水と芦屋釜との歴史的関係


直方で高取焼 内ケ磯窯を開いた25・6歳の頃、初めて芦屋町の遠賀川河口に立った時、まだ芦屋釜には殆ど関心も興味もなかったが、今も在るヤマハのヨットハーバーの前の河岸から対岸の民家の風景を見ていると、何故かは自分でも不思議だったが、眼前に広がる風景に懐かしさみたいな安堵感みたいなものが鳥肌が立つような感覚を伴って、足元より湧き上がり、体の中を突き抜けて上へ抜けて行って驚いた不思議な思いをしたのをあれから45年以上も経つのに忘れる事が出来なかった。

生まれて初めての経験で、とにかくその意味を知る由も無かった。

ただ、不思議な感覚をおぼえたという記憶でとどまっていた。

そして「山鹿」という名前に言いも知れぬ妙な感覚が中校生の頃からずっと在った。

それは、中学の同級生に「山鹿」姓が居て、初めてこの苗字に出会った時に何か説明出来ない不思議な感覚がして、その意味が分からず、今日まで長い時間が経ってしまっていた。





ここ10年くらい前から芦屋釜が気になり出し、骨董屋やフリーマーケットで芦屋釜がないかと注意していた。

しかし、それらしき釜には出会うことは無かった。


ところが、今から数年ほど前、ひょんなことから、いかにも古びた雰囲気の茶釜を手にした。

手元にかかえた茶釜にある「霰の州浜」の模様を見て、「芦屋だ!!」 と直感した。

その時はまだ芦屋釜の事はたいして詳しくはないし、ましてや今まで、この手で触れた事も無かった。

かつて見たのはガラス越しに展示されたのだけ。

しかも、かつて見たのとは模様や雰囲気が違うのに、でも、なぜか、「芦屋だ!!」。


でも、茶室も無いし茶を嗜む環境でもないので、使う事も無く数年が経ち今年になってようやく手入れをしたくらいのもの。




ところで、私の 「友枝」姓 は豊前の国を鎌倉時代から室町後期まで治めていた「宇都宮氏」の一派とは聞いていたが、それ以上は親族からは何も教えてもらった事は無かった。

せいぜい家来の内の一人くらいの事だろう, ぐらいにしか思っていなかった。



ところが、「宇都宮氏」 四代目の子の一人が「友枝氏」を名乗り「分家」とは、去年になって他人から教えられていた。

つまり家系にはあまり関心がなかったが、インターネットで何気なく、私の姓「友枝氏」や「宇都宮氏」で検索してみた。



ところが、「宇都宮氏」 豊前を治める前、一時 芦屋 を治める とある。

ビックリした。

そして、平家滅亡後、幕府の命により、関東より下り、芦屋を治めるが、当時の慣習により、地名から「山鹿氏」を名乗る

これにもビックリした。


こんな事、親族は誰も知らない内容。


友枝觀水 62歳になってやっと若い頃にあったデジャブーの不思議な感覚が理解出来たのと、芦屋釜が縁あって来たのが分った。

今になって気づいたが、あのかつてデジャブー感覚に襲われたのはかつての「山鹿」氏の居城の真下の位置。

それも、かつての居城を背にして立っていたことを若かった私には気が付かなかった。

かつての居城跡は城山公園として開放されている。




芦屋での鋳造が始まったと謂われるのに諸説あるが、中に建仁年間の説がある。

建仁年間とは西暦1200年からの約4年間のこと。

鎌倉幕府が守護・地頭の設置を始めたのが文治元年西暦1185年とあるから、この年に宇都宮氏が「芦屋の荘」に赴任したとしたら建仁元年は約15年後頃となるから、十分時間的に合致する。

時の天皇は土御門院

この名前も何かしら意味深なところがある。

釜作りに粘土は必須、それに砂と砂鉄は土の中より生まれてくる。


これらより、芦屋釜は建仁年間草創説が確率が高いと思われる。



そして、手元に在った釜、世に伝わる室町後期の芦屋釜とは雰囲気がかなり違う。

となると、鎌倉時代!!。

現存する唯一鎌倉時代後期とされる重文の芦屋釜の作風から観れば、それよりも古い可能性があるが、そうなると極めて初期の西暦1200頃の最初期の可能性もある。

妄想と笑われるだろうが、もしかしたら、かつて職人たちとあれやこれやと失敗と工夫を重ねて、たまに完成していた実際に手にし眺めた釜そのもかもと。

いつ頃からかははっきりと憶えてはいないが30歳ころには、芦屋釜を現代で作る鋳物師「山本利行」さんの仕事場へちょくちょくお邪魔をしていた。

なぜか、時々無性に行きたくなって、鋳造の仕事場に入ると気が落ち着いていたのが、今になって理解出来るような気がするのである。

それもつい最近までで、このホームページを書くようになって、それも無くなったが、多分当時もそれこそ毎日のように通っていたのではと想像する。

そして、私が死んだのはこの芦屋の地で、死ぬ寸前にかつて私がデジャブーを体験した同じ足元に立って、現世に別れを告げるべく眼前の風景を眺めていたのではと思うようになった。


又、不思議な事に山本さんの先祖が「宇都宮氏」の重鎮であった事を聞き、ビジョンには出ていないが山本さんは芦屋釜草創に向けて研究している時のメンバーだったのではとも妄想している。



話をもどすと、手元に在った釜は現存する芦屋釜では草創期の最古の物と確信している。



なんと800年も経つのに、どういう使われ方をされたのか、それとも材質が極めて上質だったのか 「うぶ底」 となっている。


砂鉄も粘土のように、採る場所で性質がかなり異なっている場合もあり得る。

つまり、芦屋砂鉄だからといって、全てが同じチタン量を含んでいるとは言えないから。

となると、芦屋釜それぞれのチタン量に差がある可能性がある。

前記したチタンの含有量17%はあくまでも現在収集された砂鉄からのデータであるのは言うまでもないのだが、当時特に鎌倉初期の頃に厳選した砂鉄のチタン含有量については今はまだ不明。

もしかしたら、17%を上回るのがあったかもしれないと思っている。

北九州近在において砂鉄が見られる所がかなりあるので、10箇所程の砂鉄の分析をいずれする必要があると本日思った。(2012年9月16日)



当時においても、砂鉄の段階でチタン量を見分けるのは簡単である。

チタン量に違いがあるとなれば、比重が違うから、同じ容量、例えば枡などで同じ容量にして重さを計れば簡単にチタンの多いか少ないかが判別出来ることになる。

鎌倉初期の頃は、多くの砂鉄の中からチタン量の多いものを選んでいたはずである。


鎌倉初期の頃は材料を厳選して使用していたが、室町後期になると、材料そのものの減少ににより、厳選どころではなくなっていた可能性を感じる。

それが、釜の縁を指で弾いたり、拳で胴を叩いたりした時に出る澄んだ音に室町後期のとは違いが出ることになっている。

初期の頃はチタン量の多いのを使っていたが、後期になるとチタン量が少ないのを使うしかなく、よって、同じ重さにしようとするならば、釜の厚みなどを薄くしなくてはならないのは必然で環付きさえも小さくするのは当然となる。
よって、環付きの大きさで時代が分かるとも言える。


なにせ、通算400年もの長きに渡って製造されていたのだ。

砂鉄の枯渇は当然考えられる。



又、鎌倉初期の頃と室町後期の頃とでは、模様などの様式が異なっていても当然となる。

その上、室町時代には四軒の釜元があったという事は、芦屋釜といっても様々な物があって当然となるし、注文主の希望でその要求にも答えていたはずとも考察すれば芦屋釜といっても色々あるのは当然と考える。








所有の鬼面の環付も侘茶流行以前の様式で力強くて大きくて胴の下方に付いている。

鬼面の直上にも模様が在り、芦屋釜特有の挽き回しの型成形(引き中子)で作られているのが良く分る。

釜の縁を指で弾いた時の音も室町後期とされる芦屋釜と二つ並べて、より澄んだ良い音がするのを確認した。

この室町後期とされる釜は薄作りであるにもかかわらず、より分厚い鎌倉時代の方が高く澄んだいい音が響くのが面白い。

ところが、現代の鋳鉄のを叩くと、鈍い「ぼこっ」という音がするのである。



前記のように分厚い胴の部分を拳で叩いても実にいい音がするが、各釜によりチタンの含有量に差が在り得ると考えれば、それに加え、それぞれの釜の胴体の肉厚も一定では無いはずだから、又、鋳造時の湯の温度や鋳型の温度にも若干の差もあるはずと観れば、各釜により響く音に差があるのは当然となる。

この釜の胴の模様も竹と梅で、松が無いのも初期の芦屋釜らしい。

蓋は無いが、松は蓋とつまみで表現されていたと推測される。

胴には 「羽」 が完全に付いている侘茶以前の様式がそのまま残っている。

全体の雰囲気は力強くかつ気品があるもので、特に梅の花の模様などは丁寧な仕事振りでとても800年も前のものとは思えない存在感がある。



友枝觀水が観た芦屋釜の歴史考察
芦屋釜が衰退した原因には、今までは不動の定説があって、皆それを信じ込まされて来た。

「大内氏」の衰退が原因とされているが、当時国内では圧倒的人気を得ていた芦屋釜が領主が変わったからといって衰退するはずは無いと考える。

芦屋釜が衰退する末期には確かに大内氏が九州を含む一帯の大領主ではあったが、実際には「芦屋の荘」に関しては「宇都宮氏」である「山鹿氏」及び山鹿氏より分家して後勢力を持った「麻生氏」が治めていたと思われるわけで、「大内氏」が居なくても市場的必然により芦屋釜は存在したと観る。

芦屋で鋳物事業を草創したのは、「宇都宮氏」だった。

大内氏が草創したというのなら、室町時代に入ってからの草創となる。

「宇都宮氏」が赴任してから15年後の建仁年間とすれば、「宇都宮氏」には時間的には十分に余裕がある。



幕府の命により、「芦屋の荘」に来てはみたが、港があるだけで他に特に取り柄が見当たらないただの田舎。

海はあるが特に何かしら特別な収穫が上ル豊かな海でもないし、特に産業も無く、豊かでもない。

海岸を散歩すると波打ち際や砂浜に砂鉄があるのに気付いただろう。


現在の私は陶芸が本職だが、28歳から発明協会に所属してなにやらかにやら作ってきた。

発明範囲は多岐な分野に渡る。

DNAの繋がりがあるから、豊前宇都宮氏の初代にも発明的閃きのDNAがあっても不思議ではない。

ましてや、もし、私の前世が初代豊前宇都宮氏だったとしたら、砂鉄を見てそのまま見過ごすとは考えられない。

その上、その一寸前の時代には、鉄の薄板片が貨幣の代わりをしていたくらいだから、砂鉄に砂金に近い価値感があったのではというという見方も考えられる。


当然、砂鉄で物が作れることぐらいは知ってたはずだから、うまくいけば「村おこし」になる、いや「国おこし」になると思ったはず。

そこで、鍛冶屋くらいはあったので研究したら刃物には向かないが釜には向いていることに行き着いたに違いない。

本格的な釜の鋳造技術については、芦屋の港に来ている中国船に頼めば簡単に職人を連れて来てもらえたはず。


中国の僧侶が作り始めたという説があるが、現代の釜作り専門の釜師でも普通の砂鉄でさえ作れないのに、僧侶にチタンの多い砂鉄で釜を作るのはまず無理。

大きさの寸法とか形や図模様の指導ぐらいの、マネージャーとしての存在なら理解出来るが。

実際の製造は本職の職人が別に居たと観る。

又、僧侶が指導していたというのは、職人達と同じ船でたまたま乗り合わせたのが、後日になっても時々遊びに来ていたのが、そういう説に変化したと推察出来る。



初めは砂鉄からだが、遠賀川上流の香春岳からは銅が採掘されていて奈良の大仏の材料として採掘されていたくらいだから、銅も豊富だったので芦屋では寺の梵鐘も多く製造されていたのは周知のとおり。

香春岳から銅が産出されていたが、隣の地区の名前は現在でも「採銅所」。

ここにも因縁があるのか、私の小学校の恩師の家が採銅所で、六年生の時に恩師の家に同級生数人と遊びに行った時に休日の鉱山に入り込み落ちていた黄鉄鉱の塊を拾って帰った記憶がある。

金ピカの塊で一瞬子供ながら金かと思ってワクワクしたのを憶えている。



もしかしたら、鉄と銅の鋳造は既に行われていたかもしれない。

ただ、釜が作られていなかったというだけの事でしかないのではとも思われる。


いずれにしても、砂鉄と銅が豊富にあったおかげで、相当に栄えたと思われる。




ところで問題の、大内氏の本姓は「多々良氏」との事で、出自が朝鮮と自称しているところから、元は朝鮮渡来の鋳物師集団としたら、当然、砂鉄には詳しかったはず。

ところが、山口の砂鉄は普通の砂鉄だったようで、釜には使えないもの。

それは、後に芦屋釜が廃絶したあとに芦屋の職人が全国に散らばって釜を作ったのだが、山口では作られていない事から知ることができる。

ところが、山口地方には鉄鉱石すら産出されていなかった証拠の資料を見つけた。

これによると、砂鉄の産出量は極めて少なかったのが判明した。

自領内の分をまかなえていたかどうかも怪しい。

この資料によれば、無きに等しい量。




そんなわけで、銅山も無い山口からみれば、繁栄を極める芦屋は羨望の地。

その上、九州北部は金山が多数あった。

昭和時代まで存続した鯛生金山を筆頭に、福岡には小さな金山が多数あった。


130年以上に渡って芦屋の繁栄を眺めていれば邪心が湧いてくるのを止められなかったのは想像できる。

山口領内の砂鉄ではどんなに優秀な鋳物師が居ても、芦屋釜に匹敵するのを作るのは不可能と気付いていたが鎌倉幕府の滅亡の段階で九州侵略を思いついたのではと推察する。

ところが、宇都宮氏は武闘派ではなく文系のため軍事力には力をいれないため、、大内氏は芦屋が欲しくて武力増強して、九州侵略を企てたと観る。

ところが、大内氏は芦屋釜草創後164年後でさえまだ九州侵略はしておらず、まだ山口に居たのは、大内弘世が 西暦1364年に豊前に出兵しているが敗戦し山口に戻っている ので分かる。

1364年は鎌倉幕府滅亡し室町時代になってから既に31年が経っている。


つまり、九州侵略は芦屋奪取が最大の目的だったと思われるが、九州侵略の正確な資料は見つかっていない。


推測するに、鎌倉幕府滅亡の1333年から47年後の1380年に大内義弘が豊前守護になっていることから、この年に念願の芦屋を手中に収めた可能性がある。

しかし、大内氏は元々は九州侵略は考えていなかったとも思える。

それは、「今川氏」の九州侵略に便乗したが、前記のように大内弘世の代に敗戦し撤退、その後「今川氏衰退」
に及び「大内義弘」が単独で北部九州制覇果たし、「芦屋」を支配したと観る。

宇都宮氏によって草創されてから、180年も経っている計算になる。



そして、芦屋からの収益と金山からのを元金として、朝鮮との貿易を始め、当時としては多大なる経済力があったからこそ、紀州にまで軍を送り支配下にできたのではと推測する。

又、いつかは判らないが石見銀山をも奪取している。

ところが、室町幕府と名前は変わっても、鎌倉幕府の時と構成は対して変わっていなかったのに、中央に縁戚が多くいた宇都宮氏より経済的基盤の芦屋を奪い、朝鮮貿易にしても対馬の宗氏の権益を無視し勝手に直接貿易を始め、紀州統治後に幕府に恭順を進言しておきながら、幕府の普請要請を幕府を小馬鹿にしたような理由で断ったりしたために、反感と不信感を募らせたた室町幕府に疎まれて、結局は堺で幕府に攻められ敗死している。

ところが、又、面白い資料が見つかったので、そのままコピペする。

▽大内義弘 (1356〜1399)多々良・孫太郎。六カ国守護。大内弘世の息。1371年今川貞世を支援して九州入り。
豊前守護。1391年対・山名氏清の「明徳の乱」に軍功抜群の働きをし、周防・和泉・紀伊の守護を兼任する。
南北両朝の合体にも貢献。1379年朝鮮と交易を開始する。河内畠山氏の湊を封鎖したことと、瀬戸内海東西の湊を支配したことで、細川氏からも嫌悪され、管領・畠山基国と細川氏が協力して大内義弘を失脚させる。1399年足利満兼を奉じて堺で挙兵し「応永の乱」を起すが(兵5000)、足利義満自らの討伐軍(兵30000)に敗北し討死。

これによると、なんと恐れ多くも、幕府転覆、今風に言うと、クーデターを企んだようだ。

言い換えると、日本そのものを収奪しようとしたようだ。




おそらく、芦屋を収奪した大内氏内部には芦屋での増産に反対する意見もあったと思われるが、それを無視して増産を強行、増産に拍車をかけた結果、芦屋での砂鉄の資源枯渇を招き芦屋の衰退を速め、一時は栄華を誇っただけに収益の激減度が激しく、芦屋の生産減少は経済的にも大内氏に打撃を与え、収入激減が大内氏領内に不満となり、武断派の重臣の陶隆房の謀反に遭って、1557年長門の長福寺で大内義隆は自害する。これにより「大内氏」は衰退への道をたどることになり、その後、大内氏滅亡へとなったのではと推察する。

大内義弘が九州侵略を成した1380年から、義隆が自刃した1557年までは177年ある。

ということは、宇都宮氏芦屋前期と大内氏後期が丁度同じ期間の180年づつあったことになる。

後期の約180年で砂鉄を食い潰したと言える。

180年という長い間、増産を続けたら、そりゃあ無くなるでしょう。




それまで贅を尽くした事は歴史が証明しているので、ここではあえて省略する。

よほどの事がない限り、部下にによる謀反は考えられない。

大内氏での謀反については定説があるが、芦屋に関する事柄が抜けていては真相には届かないだろう。

つまり、大内氏は芦屋の衰退を早めたが、ある意味、宇都宮氏によって栄えていた芦屋の名声を羨んだ事が大内氏の滅亡を招いたとも言えるかもしれない。


九州侵略をしていなければ、大内氏がクーデターにより滅亡することもなかったのではと推測する。

よって、よく使われるフレーズ、「芦屋釜は大内氏の庇護の元に栄えた」 は誤りと宣言する。

正しいのは「芦屋釜は宇都宮氏によって始まり栄えていたが、大内氏に侵略横取りされて
衰退を早め、大内氏の滅亡の原因となった」




鎌倉時代末期のまだ芦屋が宇都宮氏のものであった頃、蒙古襲来があるが、関東の宇都宮氏が総大将を務めている事から、その背景に弟系の豊前宇都宮氏の経済力があった事が推測される。

又、蒙古撃退後、宇都宮氏が戦勝を祝って鉄製の大灯篭を献上している事からもその時点では芦屋が宇都宮氏のものであった事が分かる。






ここで、芦屋釜の特質点の再確認をしてみたい。

今日、茶釜の国宝としては九つあるが、内八つは「芦屋釜」である。

芦屋釜が存在していた頃、全国には多くの鋳物産地があったし、京都には「釜座」さえあったのにわざわざ辺境の九州芦屋まで京都の寺が注文してくる状態だったので領主が誰であろうと政治には関係なく事業としては存続できたはず。

では、まず、なぜ、芦屋釜を当時の茶人が欲したかと言う点に改めて絞ってみよう。


前記したように芦屋釜が芦屋釜たる圧倒的な理由があった。



@ 国内で唯一
17パーセントのチタン合金を含むが故の圧倒的な軽さ。

手元の「うぶ底」 の芦屋釜と同じ容積の釜を普通の砂鉄で作り、実際に持ってみれば判明するはず。

芦屋釜の体感出来るその圧倒的な軽さに当時の茶人は感動したと思われる。

鉄とチタンのこの違いを感じるには、前記したようにチタンのネジを手に取って同じ大きさの鉄のと比較してみれば歴然と理解できるはず。

その余りの違いに驚嘆の声が思わず出るのを推測出来ます。

チタンネジはインターネットで買えます。

小さなネジでさえ感じる圧倒的な重量差、釜みたいに大きくなればその違いは感涙物だったはず。



現在に伝わる伊勢芦屋の釜があるが、かなり重量があると解説されていることから、古芦屋の特異性は歴然としている。

ただし、修理されて釜底を入れ替えられた芦屋釜は修理に使った釜底の材質が良くないために、芦屋釜本来の重量よりは重くなっているはず。



A 錆色の美しさに格別の美意識を見出した。


普通の工業用鋳物鉄の錆が美しいとは思えないが、チタンの含有量が多いとチタンそのものは錆びない性質を持つために錆の進行が極めて遅く、錆びても釜の表面にうっすらと粉を振ったようになり、布で軽く拭くだけで取れるしその錆びた色自体に独特の美しさがあると当時の茶人は発見し気付いたと思える。

国宝の芦屋釜には釜底を修理したのがあるが、この底の部分は芦屋砂鉄を使っていないので胴体をなす上部の芦屋砂鉄との鉄の色に格段の違いがある点に注目してみれば分りやすい。

底の部分の鉄色に美しさは感じられないはず。

ただし、漆を塗っているので判りにくいとは思えるが。

現代作では錆止めとして茶釜の内側を含む全体に漆を塗っているが当時はそのまま楽しんだのではと推測する。

もっとも、お茶に含まれるタンニンによる、いわゆる黒染めはなされていた可能性は在るが、鎌倉時代を含む初期の頃の侘び茶が流行る以前ははピカピカに磨いて使用されていたとの説がある。

が、そうなると、芦屋釜でなければ錆びやすくて大変だったのでは。

芦屋ならピカピカに磨いてもあくる日になってもそんなには光が鈍くなっているとは思えないが、普通の砂鉄の釜では光が鈍くなる以上に梅雨時などたった一日で赤い錆びすら浮かんでいたはず。



芦屋の砂鉄の生産量が落ち、必全的に芦屋釜の生産が減り、入手困難になって、芦屋以外の砂鉄を原料とした釜では、ピカピカに磨いた状態を保持することが不可能となり、鉄の錆びを逆に美なるものとして認めるしか方法がなくて、「侘び錆び」 の「錆び」 が 新しい美意識として流行ったと推測する。



何時の頃からかは分からないが漆で錆止めとするようになったが、鉄の表面に漆を塗ってしまっては鉄錆の美しさは味わえないことに茶人達は気付いていないのが不思議。

しかし、江戸時代作以後の茶釜の表面には漆を塗らなければ、ただ汚い錆色に覆われただけで美の世界とは無縁の世界かも。



B 湯が湧く時の音に「松籟」という名を付けて楽しんだのだが、チタンを大量に含む芦屋釜はその「松籟」においても格段の美しさを誇っていたと思える。


チタンは結構硬い性質を持つために現在では多方面に使われているが、その硬さが松籟に独特の音色を醸し出していて芦屋釜は「松籟」においても格段の差があったと思われる。

試しに、「うぶ底」の芦屋釜と底を貼り変えた芦屋釜を実際に火に掛けて湯を沸かして「松籟」を聞き比べてみると面白いかも。



C 模様の美しさ。

手元の鎌倉時代と思える芦屋釜と室町後期のを比較すると鎌倉時代の方が絵に風格や情緒が感じられるが後期になると絵に味わいが希薄で絵の情緒が下がっているのが在るのが感じられる。




以上のような特色を持っていたのだが、市場原理の点からは芦屋釜が衰退するのに他の産地との競争があって負けたとは考えられない。


その証拠に、重文の殆どが芦屋釜であるのを観れば充分。

まともに残っているのは芦屋だけのようだが、室町後期の京都釜座の作品が当時はそれなりに多く作られていたはずなのに良品が伝承されていないのは、砂鉄そのものの材質が悪いために長年の使用に耐えられず錆び腐ってしまったと思われる。

芦屋砂鉄の特異性から、未だ現代の釜師にも芦屋釜を超えられないでいるし、当時より現代まで、どこにも芦屋釜に勝る砂鉄を有する競争相手はいなかったのだから、大内氏の存在自体とは関係無いところに衰退の原因が在ったのではと友枝觀水は観る。




それは、このページの冒頭に記してある現象の大規模な現象が起きたと推測する。


前記のように、砂鉄のまるで一抱えもある大きな石のような大きな塊さえあったのに今はなぜか何処にも無い。

地形そのものには何も異常は見られないし誰かが掘ったという状態でも無い。

消えてしまっているという、妙な状態。


かつて砂鉄の縞模様があった砂浜を掘ってみても砂鉄は無かったし、砂鉄で真っ黒だった波打ち際にも全然無いし、そこを掘っても全く無い状態。

砂浜が砂鉄で縞模様をなす場所はそこを掘れば下側も砂鉄と砂の縞模様が在った。

しかし今はもういくら掘っても、ただ、砂だけがあるのみ。

海岸への細い小川が運ぶ砂鉄が織り成し流れる縞模様も今はもう見られなくなってしまっている。


実際、ほんの数年前までは、芦屋海岸に行けば、私が釉を作るのに必要とする砂鉄は簡単に採集出来たのに、同じ場所にはもう無い。


今年(2008年)になって知った、前あった場所から全く砂鉄が消えてしまっているのは、これは何を意味するのか考えてみた。

一体、何が起きたのか。??






つまり、砂鉄を掘り尽くしてしまったのが芦屋釜衰退の最大の原因と教えてくれていると観る。

なにせ、400年もの間、相当な量の砂鉄が採掘されたと思えば想像は出来る。



現在、芦屋に於いて砂鉄が採れないから昔も無くて、他所から砂鉄を仕入れて芦屋釜を作ったと考えるならそれは余りにも短絡的で思慮に欠けると言える。



かつて盛んだった砂鉄の採掘量が時と共に減少し芦屋釜の生産量に影響を及ぼす事態にに入ったのではと。




つまり、砂鉄という資源の枯渇

私が驚いたように、かつても、ある日、豊富な砂鉄が消えて生産不能となったのでは。

もしくは、徐々に採れる量が減ってしまい、需要に応じきれなくなり、その分、京都の釜座の仕事が増えたのではと。


当時の芦屋は港としても栄えていたので、他所から砂鉄原料を仕入れる方法もあったはずだし、実際に仕入れて作ってはみたのは充分に推測出来るが、それでは満足なのは出来なかったはず。

芦屋で採れる砂鉄、もしくは遠賀川流域で採れるチタンの一杯入った砂鉄でこその芦屋釜だったのだから、砂鉄が無くなれば、そこで終わりという事になる。

大内氏滅亡後に芦屋釜も作られなくなったのは事実だが、時を同じくして砂鉄が採れなくなったのではと推測する。

たまたま、大内氏滅亡の頃にと時期が重なりはしたが、大内氏が繁栄していたとしても、やはり、芦屋は衰退したのではと推測する。

芦屋に砂鉄が無くなったから各地砂鉄産地に離散した職人によって芦屋釜風のが又各地で作られるようになったと観る。


芦屋で引き続き砂鉄が豊富にあったのなら、たとへ大内氏が滅んだとしても釜元の一軒くらいは引き続き生業していたはず。

要は前記したように、芦屋砂鉄が無くなったから「大内氏」が滅んだのが実際の歴史と観る。




それで、増産の内容というか事業規模について考察してみた。

芦屋釜草創の頃は当然ながら、釜元は一軒だけと観る。

私が今住んでいる直方市は鉄工所の多い町で、今までに色々な鋳造所に色々な部品を作ってもらっているので、鋳造所の概要は知っている。

それを踏まえての推測となるが、当時といえども、たとえ一軒の鋳造所でも、工場の規模と人員次第でかなりの生産が可能と言える。

宇都宮氏一族に流れる血筋の思考回路から推測すれば、質の高い釜を作るのを最優先としていたと思えるので、釜元を増やす事は論外と。

私の窯は薪を使う登り窯で、今時流行っているガス窯とか電気窯は想定外と。

それに、売れ筋をあえて狙わない独自路線を外さないで来た。

当時でも、たとえ注文が殺到していても、いたづらな増産はしていなかったと観る。

つまり、宇都宮氏の頃は、釜元は一軒だけであったと推測する。

ところが、大内氏になるとそこは日本人と異なる民族、サムスンを見てもわかるように、ひたすら大規模化に邁進しているのは血筋の成せる業か。

サムスンもそうだが、かつての大内氏と似たような事をやっている。

「傲る者、久しからず。」 の ことわざを知らないようだ。



芦屋釜の釜元は室町時代には四軒あったとされているので、単純計算であるが、四倍に増産したと観る。

そんなに増産して、資源の砂鉄の埋蔵量の事、考えたりしなかったのだろうか。

どういう思考回路しているのか、不思議でならない。

考えてみれば、かつての朝鮮国において、山の木を切った後に植林をしなかったために国土が禿山になったのと似ている。

日本人なら、将棋や碁で言う「三十三手、先を読む」 というように、未来の事まで考えるのが常識なのだが。



又他に、大内氏が滅んだ原因に一つ考えられるのが在る。



これは実証するのは不可能で、ほとんどの人は信じないだろうと、予測出来るのだが。

平安時代には安倍晴明という有名な陰陽師が居たが、鎌倉以降は宇都宮氏が担当していたとある。

その内容については、何も伝承されていないので知らないが、身近な例では、私の四代前の曾祖父自身は
霊力は無いが、霊力のある者を使って治療やら霊験を表していた。

その頃の神霊を祀った廟は今も豊前の先祖の地に存在している。

私自身にも何の霊力も無いし、見える事も無いが、病気位なら治せる。

それに、私は何も念を送ったり掛けたりはしていないのに、私に不利益なことをしたりすると、私の知らない内に大病や大事故にあったりしているのをしばらく後で知る事になっている。


中には亡くなっていた事もあって、私自身が驚いている。

こういった霊障と思える事がその人の状況の情報が入る限り、100パーセントの確率で起きている事から推測すると、大内氏もこういったエネルギーの影響下にあったのかなと。



宇都宮氏に害を成して霊障を受けたのは、大内氏以外では豊臣秀吉と黒田長政が挙げられる。

豊臣秀吉は、「宇都宮氏を滅ぼしたのは失敗だった」 と、言っていたそうだが、結局は血縁の者全て死に絶え、血脈断絶。

黒田長政は秀吉の手先として、歴史に残る極めて卑劣な手段で宇都宮氏を謀殺し、以後生まれて来るのにまともなのはおらず結局は血脈断絶となり、「宇都宮氏の祟り」 と、世間の語り草になったとある。

これら三者は他にも多くのカルマを背負っていて、因果果報の法則からは逃れる事は出来なかったようだ。




以下の写真は芦屋海岸での砂鉄が黒い縞模様となっているかっての様子。
この二枚の写真は砂の表面を削ると出てくる砂鉄の縞模様。
砂鉄が多いとこんなに表面が黒く覆われていた。

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